東海道沿いの性:日本中に広がった性産業
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17世紀後半から18世紀にかけての時期、色道と言えば一般的には藤本箕山(1624年-1704年)によって書かれた吉原での客の作法を示した『色道大鑑』(1678年頃)が、まず思い浮かぶ。しかしながら19世紀にはすでに吉原はその人気を失い始め、そして一方では国内旅行の増加によって、大阪や京都に同様の幕府公認遊郭が存在し、皮肉にも「色の道」は文字通り東海道や木曽街道と結びつき発展した。

遊郭もしくは廓と呼ばれる地域は茶屋、銭湯、旅籠屋、売春宿を揃え、更には夜鷹や歌比丘尼のように独立した街娼も合わせ備えて、日本中の小さな街にまで長期間に亘り存在した。各地方で個別に発達していた遊郭が東海道により繋がり、19世紀には国境を越えた性産業の連なりの一部となっていった。それぞれの街が、訪れた旅人を地元料理でもてなすように、家族によって年季奉公の労働力として売られた女性達による性奉仕も地方都市の名物となっていった。

浅井了意(1612年-1691年)の『東海道名所記』(1660年頃)と十返舎一九(1765年-1831年)の『東海道中膝栗毛』(1802年-1822年)をきっかけに、まず東海道沿いの旅が人気となった。後者の話は、明らかに性的な話題を含み、弥次郎兵衛と、その相方で若衆の喜多八は、宿に飯盛り女による魅力的な性奉仕があるかどうかで宿を選んでいた。しかしながら皮肉にも物語は、かれらの道程に沿って急成長してきた性産業よりも、二人の間の男色関係により焦点をあてている。

歌川広重(1797年-1858年)は、かの有名な『東海道五十三次』を1833年から1834年にかけて製作し、そのいくつかの場面には娼婦が描かれている。1830年代半ば頃には、歌川国貞(1786年-1865年)が、それぞれの土地固有の着物に身を包んだ美人を広重の風景画の中に登場させ、各々の土地で性的関係を持つことができる、と旅人に知らせる為に続編の揃いものを製作した。広重の東海道シリーズは国貞の賢い宣伝戦略により売り上げを伸ばしたのは疑いないが、何よりも国貞の美人東海道に多くの恩恵をもらったのは、その街道沿いの売春宿主たちであろう。

国貞の描いた美人東海道と同じ頃、渓斉英泉(1790年-1848年)や恋川笑山(1821年-1907年)や何人かの絵師達はいくつかの旅の目的地では性奉仕が可能であることを描いた春画作品を発表した。外国人との性行為と同じように、異国情緒に満ちている日本の田舎街を描いた彼らの作品は、日本が20世紀初期に乗り出す帝国主義を彷彿させ、地方都市の征服という観点から性についての議論をなげかけている。