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春画の衰退

1872年、文明開化政策の一部として東京府は違式詿違条例を発行し、春画の売買を禁止した。そしてその後40年にわたり、日本全国で政府がわいせつと見なした芸術品への抑圧が行われた。

この法律に伴い人々の嗜好も変化し、春画の人気は衰退していった。だがそれには春画が違法とみなされた事以外にも理由があった。写真のような新しい代替品や、ヨーロッパの学術的芸術に影響を受けた絵画の新しいアプローチなどに侵されていったのである。しかしながら、おそらく春画衰退に最も影響を及ぼした要因は、「美術」とは文化的洗練さの象徴でなくてはならないという概念の登場であった。言うまでもなく、「美術」の概念を日本に紹介したアーネスト・フェノロサ(1846-1908)やウィリアム・ビゲロー(1850-1926)や、彼らの日本人の同僚達は、あからさまな性表現は、世界の舞台へ昇ろうとしている近代国家にふさわしくないと考えた。最終的には、葛飾北斎(1760-1849)や喜多川歌麿(1753-1806)のような著名な絵師が描いた春画でさえ、かつての日本の文化を思い出す時代遅れのものとして、多くの人から退けられるようになった。