English Version
日本の裸婦画の起源と美術検閲に対する論争
「近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるが、あれはあやまっている。。。出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる礼服を着て威張って。。。でかけるではないか。その因縁を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿げていても真似なければやり切れないのだろう。長いものには捲かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧されろと、そう「れろ」尽くしでは気が利かんではないか。気が利かんでも仕方がないと云うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。」

ー 夏目漱石(1867-1916)「吾輩は猫である」(1904)第二巻第四章より、イトウアイコ、グレイム・ウイルソン訳(2002)

1880年代に百武兼行(1842-1884)のような画家により日本で最初に描かれたヨーロッパスタイルの裸婦画は、彼らが絵の勉強で海外に滞在している時に習った規則に忠実に沿って描かれたものであった。画家がモデルの肉体的外見を出来るだけ正確に記録する為に、モデルはこれと言った特徴のない背景の前で、面白味のないポーズをとるのが当然の事と思われていた。その結果として、どちらかと言えば学術的で、現代の基準から見れば情熱不足な作品となった。それにもかかわらず、大西祝(1864-1900)のような評論家達は、このような作品は見る者の肉体的欲求を刺激するのではないかと懸念した。黒田清輝(1866-1924)が京都で開かれた第四回内国勧業博覧会で 「朝妝」(1893)を発表した1895年に、裸婦画への道徳的反発はピークに達した。鏡の前に立ち、髪を整えている裸婦を描いたこの絵画は、この博覧会で妙技二等賞を獲得した。しかしながら新聞の評論欄は国家の推進する文明開化のご時勢に、このような淫らな絵を展示した黒田の大胆な行動を激しく非難した。

20世紀の大半を通じて、日本政府は裸婦画の出版を禁止したが、1990年代に、「春画ブーム」として知られる春画に関する学術的研究の突然の高まりにより、これらの規制はついに緩くなった。しかしながら、2014年7月の彫刻家五十嵐恵(別名 ろくでなしこ 1972年生)の逮捕や、その翌月の愛知県美術館での「これからの写真展」においての検閲のようなエロティックアートを抑制しようとする動きを鑑みると、日本では性的に露骨な芸術品は、これまでと同じように依然物議を醸し出しているという事がわかる。