日本における写真の起源は、1853年の米国提督、マシュー・ペリーの艦隊による浦賀港への上陸と日本政府へ開港を求めた出来事に深く関連している。 遭難時アメリカの捕鯨船に海で救出され、その後10年をアメリカで過ごした中濱萬次郎(通称:ジョン万次郎 1827-1898)が西洋の習慣をよく理解していたので、徳川将軍はペリーと彼の部下達との交渉を万次郎に依頼した。
万次郎は、さらに1860年、日本大使館の遣米使節団の一員として米国に渡り、その時に彼は銀板写真機を手に入れた。同年、日本に戻り万次郎は日本で最初の商業写真家である鵜飼玉川(1807-1887)、下岡蓮杖(1823-1914)、上野彦馬(1838-1904)らと共に江戸に写真スタジオを開いた。
西洋近代化の典型的なシンボルであった写真の魅力は、他の芸術的媒体のもつ魅力を急速に上回った。
浮世絵として知られる日本の版画と絵画は、それ本来が持っている色、形、線を豊かに引き出す。しかし、写真は立体的な深い空間や光と影のグラデーション、要するに写真の中で捕らえた「真実」で画像に説得力を与える。
―ロバート・スターンズ「Photography and Beyond in Japan: Space, Time and Memory」(1995)
日本の写真家による目に見える真実を追求する初期の努力は、技術革新に焦点を当てられていた。1870年代と1880年代に江崎礼二(1845-1910)と臼井秀三郎(1860年代から1880年代にかけて活躍)はゼラチン乾板の技術を導入した。この時期、横浜を活動拠点とする写真家フェリーチェ・ベアト(1832-1909)とチャールズ・ワーグマン(1832-1891)は鶏卵紙と呼ばれるプリント技法を普及させた。
日本では「真実」という概念は写真の美学にとって、なくてはならないものである一方、現代の写真家が追い求める真実とは、昔の写真家達がこだわっていた構図などとは別のところにある。例えば今回の展覧会で展示されている荒木 経惟(1940年生)や米原康正(1959年生)の作品は、我々が持っているモラルに反する性の概念に焦点を当てている。
左:伝日下部金兵衛(1841-1934)
吉原の少女達
1890年代
(2012-40-06)