19世紀以前の春画:性が純潔なものとして描かれていた時代
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春画が日本で最初に発展した17世紀から18世紀にかけては、現代の日本と違って儒教の教えが日本文化に強い影響を及ぼしていた。人々は愛情表現を表に出さないように教えられていたため、春画を楽しむ事や、その春画が儒教の教えに反して個人的な楽しみを支持していた事は、人々にとって魅力的であるが故、儒教の教えを覆す恐れがあった。多くの人が春本に対して好奇心を抱いていたにもかかわらず、ただパラパラと見るだけでも公共的に不謹慎であると非難され、その中の挿絵も規制されたので、版元は春画には見えない表紙の小さな春本を作った。楽天的ではあるが、それなりの内容のものにするため、絵師や著者は、しばしば物語、宗教、そして古典文学などを風刺した春画作品を作った。純粋無垢なイメージを保つために、春画の中の登場人物の多くは思春期の若者くらいの年齢であり、そして絵師達が性器そのものを描く際には、それらを歩いたり話したりする人物のように描き、性器を人格化した。

当時の性産業においても、この純潔さや文化的高潔さを重要視する傾向が見られた。地方都市で増えつつあった市民の不安を抑えるために、それぞれの藩の大名に江戸(現代の東京)への参勤交代を義務付けた時、幕府は江戸近郊にある吉原の遊郭を幕府公認とすることにより、役人やそのお付きの家来達の性的欲求不満をやわらげることができると気づいた。儒教の教えは春画や春本に対してと同じように売春を厳しく非難したが、吉原の地主達は、平安時代(794年-1185年)の古典文化にならい、遊郭に貴族の洗練さを吹き込むことにより、吉原での営業を合法化させた。遊女達は彼女らの名前や個性、生活様式などを紫式部(978年-1014年頃)の描いた『源氏物語』(1021年)の登場人物のように装うことを要求された。