江戸名所として復興した吉原
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江戸時代、日本中に幕府公認の遊郭が誕生したが、そのどれもが吉原の様な、象徴的な存在にはなりえなかった。吉原は政治的中心地、江戸(現代の東京)に1618年に誕生した幕府公認の唯一の遊郭であり、1657年に江戸郊外の新しい場所に移動し、その後はそこで営業を続けた。

3世紀以上に亘って吉原は個性的な性文化の中心と見なされており、その文化は浮世絵、とりわけ春画に顕著に現れていた。早い時期から遊女屋主達は版元、著者、そして絵師達に、自分たちの店やそこで働く女性達を描く様に働きかけ、18世紀には吉原は浮世絵の最も重要な主題となった。それと同じ頃、その吉原の遊女屋主と幕府の努力にも拘らず、江戸中では公許ではない遊郭が、まだ多く残っていた。そして吉原は幕府公認という特別な立場だけでは客を呼び込めなくなっていた。

その結果、吉原の遊女屋主たちは、客達を惹き付ける為に様々な年中行事や祭りを企画する事に目を向けた。特に1741年から吉原では、毎年中之町の大通り沿いに桜の木を植えて、春の到来を祝うようになった。これは19世紀になっても残っていた年中行事の一つで、歌川広重によって何度も有名な作品の中で描かれており、この展覧会でも2点出展されている。性的な象徴とされた桜の花は、吉原の遊女達のはかなげな美しさと共鳴するだけではなく、タイモン・スクリーチ(1961-)の説によれば、開花時の折れた枝は誘惑の行為を象徴している。

その他に客達を楽しませた行事としては、毎年陰暦の8月に行われる「にわか祭り」で、それは広重の作品にも描かれており、今回の展覧会でも出展されている。にわか祭りは吉原の守り神の一つである狐稲荷に敬意を表して祝っていた。(性の象徴である狐に関する詳しいことは、展覧会内の「超自然現象を描いた春画」をご覧下さい)祭りの間、入念に着飾った遊女達が山車に乗り、茶屋に寄って踊りと寸劇を披露した。

19世紀になると浮世絵の主題として、風景画、特に国のあちらこちらにある名所が人気となり、吉原が描かれる際にもその影響を受けた。客が吉原へ入る前に身なりを整える事から名付けられた中之町の「衣紋坂」や、吉原から帰る客が最後の別れを告げる際に、後ろ髪を引かれ何度も振り返ったことに由来する「見返り柳」など、吉原の多くの場所が江戸名所とされていた。後者に関しては、伝統的に中国語でも柳は「後ろ髪を引かれる」という意味の「留」と同音語であるため、何世紀にも亘って詩の重要な主題となっていた。

吉原が江戸名所として人気の回復をはかったにもかかわらず、この展覧会で展示している広重が描いた浮世絵の時代には遊郭人気の低迷はすでに明らかであった。特に深川のような公許ではない遊郭が人気となり、広重によって描かれた茶屋の一つが今回の展覧会でも展示されており、そこは遊郭の最前線であった。公許ではない遊郭が、吉原に比べて性産業としてのみの単純な経営方針をとる中、やがて深川のような遊郭が、個別の文化的慣習を持つようになった。例えば、セシリア・セガワ・セイグルによると女性芸者はまず深川の遊郭で人気となり、その後、吉原へ受け入れられた。今回の展覧会でも何点か紹介されている歌川広重の『江戸高名会亭尽』(1838年-1840年頃)がしめしているように、不認可の遊郭は街中で茶屋として営業するだけでなく、吉原の遊女達に匹敵するような手の込んだ衣装を身にまとった女性が客へのみだらな性行為だけでなく余興も提供した。

江戸幕府が崩壊していく間にも吉原はその特権をいまだ維持していたが、程なく明治天皇が1868年に権力を取り戻した後、無許可営業の遊郭として中心をなしていた6つの遊郭が政府公認となった。19世紀後半から20世紀にかけて日本にやってきた多くの外国人にとって吉原は、まだ魅力的であったが、それは単なる華やかであった頃の過去の亡霊であり、ついには1958年、政府により吉原は閉鎖された。