吉原の終末
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歌川国貞(1786年-1865年)や渓斎英泉(1790年-1848年)のような19世紀に活躍した何人かの浮世絵師達が東海道沿いの遊里に注目している間、17世紀前半に幕府公認とされた江戸郊外にある吉原の遊郭は、春画にとっては他のジャンル同様、まだ重要な主題であった。

奥村政信(1686年-1764年)や歌川豊春(1735年-1814年)が吉原を文化的に洗練された性の解放の場であると賞賛した初期の200年間と違い、19世紀には初代歌川豊国(1769年-1825年)は吉原をより批評的で皮肉を混めて表現した。大衆がなぜ吉原に興味を失ったかという理由は唯一推測するだけだが、その人気の減少は明らかに急速であった。遊女達が発していた尊厳さと躍動力のオーラは20世紀初頭にはすでにすべて失せ、そして多くの遊女達は性病に悩まされ、セレブリティーと言うよりも、むしろ性の奴隷のように見えた。