19世紀の日本の性文化の中で、おそらくもっとも劇的な進化を遂げたものは、個々の性器によって区別される性別、社会的立場による性別、そして性的嗜好が認識された事でしょう。
19世紀までは人 - 男性、あるいは女性のいずれか、または性器により区別された彼、もしくは彼女 - の肉体的特徴による性別というものは、その人の性別、振る舞い、衣服、性的嗜好や言葉に基づいた社会的立場による主観的、潜在的な性別とはまったく別の物と考えられていた。この理由により若衆 - 長い振り袖の着物を着て、頭の毛を部分的に剃り明るい色の被り物をかぶった青年 - のような第三の性別は、男性とも女性とも違うものと分類された。仏教のお稚児や侍のお小姓、歌舞伎役者など様々な場面で、若衆は成人した男性と女性の両方に求められていた。成人男性同士の同性愛が公に認められていなかった頃、成人男性と若衆がつきあうことは男色とよばれ、それはとても一般的なことであった。
18世紀の前半以降、若衆の人気と男色の慣例はかなり下火になっていたが、19世紀の春画の多くは、その傾向がまだ完全に無くなった訳ではない事を伝えている。その間、渓斎英泉(1790年-1848年)、歌川広重(1797年-1858年)や歌川国芳(1797年-1861年)のような絵師達は、男色や女性による男装、ひいては男女両性を備えたふたなりなどを描く事により性に関する従来の概念に挑戦し続けた。「TAKARAZUKA - 踊る帝国主義」の著者でミシガン大学教授、人類学者のジェニファー・ロバートソンによれば、20世紀までには兵庫県の宝塚劇場などがレズビアン文化の中心となり、また三島由紀夫(1925年-1970年)のような有名作家がゲイとして公的に知られている。