第三章:吉原とはどんなところなのか
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1617年3月、江戸の町の男女比の人口不均等の解決策として、また多くの性的欲求不満な江戸の男性のための慰めとして、幕府は現在の東京日本橋周辺の地に11.8エーカーの政府公認遊郭を作った。この遊郭は、現在では元吉原として知られ、1618年11月から1656年まで営業された。1657年の明暦の大火で完全に焼け落ちたこの地は、その後、隅田川沿いの現在の浅草に17.5エーカーに敷地を拡張し、新吉原が作られた。度重なる火災による置屋の崩壊にも耐えながら、新吉原は戦後の占領下で売春が違法であるとされた1958年まで営業を続けた。京都にも1589年から営業している政府公認の遊郭はあったが、井原西鶴や、多くの浮世絵師から吉原が受けた注目というのは、京都のそれとは比べ物にならなかった。

吉原が売春というものにどれほど重きを置いていたかは、学者の間で議論の主題となっていた。上級遊女と会うということは、しばしば文学や芸術に関する会話をするのみに限られていた事もあった。日本文学者であるエドワード・セイデンスティッカー(1921-2007)は、吉原のそれは、ヨーロッパのアフタヌーンティーの習慣に例えられると言っている。しかしながら、遊女と会っている時にいつも性的交渉をもてるとは限らないにもかかわらず、客達が吉原への長く骨の折れる道のりを行っていたという事実は、吉原へ行く目的が必ずしも文化的興味だけでなく、性的欲求もあったという可能性を否定できない。遊女達は男女の戯れの熟練者で、そして客がまた彼女の元に近い将来戻ってくるようにしむけるために、客を故意に性的に満足させなかった。すぐに性的交渉を持ちたい客に対しては、吉原ではそれに対応できる遊女も控えていた。

吉原とは「通」と呼ばれる芸術や文学の美学を語る有識者達の単なる交流の場だけではないが、だからと言って、多くの春画の中に描かれているような、とっぴな性の空想で客が楽しんでいるポルノの理想郷(社会史学者のスティーヴン・マルコスによって作られた言葉)だけと言い切る事も出来ない。この展覧会では社会経済的・人道主義の考えにとらわれず、できるだけ様々な角度から見た吉原を探求する。それは江戸の性産業の中心地として、現代の売春システムの様に女性が使われるだけではなく、遊女達は時には社会的権力の場に関わる事もあったからである。