どんな人々がどんな風に春画を見ていたか
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江戸時代(1615-1868)における性愛を描いた芸術の人気とは、学者達によれば、参勤交代という幕府の政策と長い間関連していた。参勤交代とは地方において大名の勢力が拡大し、幕府への謀反を起こすことを防ぐ目的のために行われ、それぞれの地方の大名は、多くの家来をひきつれて毎年、一定期間を江戸で過ごすことを義務付けられた。

大名の家族は江戸に住むことを許されていたが(実際は大名が地方に戻っている間でもその家族は幕府の人質として江戸に残る必要があった)大名の家来の家族は故郷にとどまることを強いられたため、江戸の男女比は非常に不平等となった。江戸の人々の性的欲求不満を解消する目的で吉原のような遊郭が作られ、幕府により公認された。しかしこのような遊郭に出入りできない人々の間では、性愛を描いた春画と言うものが人気となった。この解釈によれば、春画とは主に自慰行為のために存在していたと考えられる。

しかしながら、春画を見ていた人々とは日本国中全ての、しかも男性と女性の両方であったと、先の解釈を否定する多くの証拠がある。多数の春本を書いた作家、西沢一風(1641-1731)や春画を描いた絵師、吉田半兵衛(17世紀後半に活躍)らは、京都や大阪のような上方といわれる地域で活動をし、そして彼らの作品が江戸にまで幅広く配布される意図は元々なかった。また、主流の劇場で演じられた作品、例えば1748年の文楽「仮名手本忠臣蔵」(四十七士)など、明らかに江戸時代の一番人気の演目は、元々上方で作られ演じられたもので、そのことは、この春画というジャンルの人気が江戸だけに収まらず日本全国に広がっていたことをも示唆している。

ここに展示している各種の版本は、露骨な性的表現と言うものが、自慰行為以外の目的においてどれほどの価値があったかを示している。いくつかの版本は単なるファッションガイドであり、若い女性達が異性にどのようにアピールすればよいかを指示する目的で書かれている。そして露骨な性描写がしてあるにもかかわらず、江戸時代初期の新婚カップルのためのセックスガイドは、ファッションガイドのように実際は教訓的であり、その一方で古典文学の下品な焼き直しは、明らかにのんきで、風刺の効いた滑稽なものであった。

春画は自慰行為のためだけに使われたという発想が、多くの春画作品の教訓的でコミカルな意図をなおざりにするだけでなく、それはまた春画と、他ジャンルの絵画や文学との間に不自然な境界線を作ってしまっている。この展覧会で証明されている様に、平凡な絵や文章の方が性的オーラをつくることができ、そしてもっとも露骨な性的表現をしている作品の方が、性的オーラや見るものの性的刺激を失うということがある。