ここに展示されている遊女たちを描いた美人画を鑑賞する際には、どの程度その作品の持つ社会学的および歴史的背景を考慮するべきか?オランダの商人が19世紀半ばに浮世絵を西洋の人々に紹介して以来、西洋人は、そこに登場する女性達を数々の物語の登場人物として、アジアの美学、または究極の美として、見てきた。実際に、浮世絵は遊女一人ひとりの日常生活での醜い部分は描かずに、都合良く遊郭の姿を理想化し、魅惑的に描いてしまっている。現代の日本人も持っている考えだが、この解釈は、吉原を単なる性産業の地とみなし、この地で特別な役割を果たしている実際の人間としての遊女一人ひとりを認識しようとする際の邪魔になるではないか?そしてもし我々が吉原の社会構造にまで注目をするとすれば、性と性の商業化に関する個人的な考え、そして社会的正義を、作品を楽しむ際にどの程度まで持ち込むべきか?これらの遊女を描いた作品が現代人にとって、とても魅惑的であるのは、おそらく春画というジャンル全体と同じように、そこには我々自身に挑戦する世界観があるからであろう。これらの作品は、遊女達が住んでいた世界をより知りたいという我々の欲望をある程度は満たすかもしれない。しかしながら、それは、300年前に吉原を訪ねた客達の好奇心と同じ物ではないか?そしてもし当時の吉原への客達が近世初頭の日本の性産業を発展させ、遊郭で働く女性達の仕事を不滅のものにしてしまったのであれば、この春画を素晴らしいと思う我々も、ある意味、性産業を認めてしまっていることになるのではないか?我々は、ここにある美人画の女性達の運命を左右した人々の共謀者ではないのか?