徳川幕府の偉業の一つとして、江戸時代(1615-1868)を通じて国中に義務付けた民衆への教育がある。17世紀初頭、読み書きができたのは、最も裕福な侍の家族だけであった。しかしながらその後の250年の間に11,000以上の寺子屋がつくられ、読み書きができる人の数は40%にまで跳ね上がり、多くの西洋諸国と肩を並べるようになった。寺小屋の生徒達は読み書きを習い、そろばんを使った。生徒達が教材として使った文学は、主に道徳に関する儒教の教えに従った論文と古典詩に限られていた。
江戸時代、一般に普及した小説と、その他の気張らし的に読む本が、しばしば紫式部(973-1014年頃)の源氏物語からの抜粋のように、読者が一度や二度はいやいや暗記させられた平安時代(794-1185)の古典文学を不謹慎にも面白おかしく引用していることは、驚くべきことではない。艶本においては、よく知られている上級階級の人々は教科書や百人一首のようなよく知られた詩で描かれているのと違い、実物以上には良くかかれず(だが恐らくより現実的に)多くのみだらな言葉遊びや面白おかしいイラストで味わいを加えられている。
江戸幕府時代の教育支持者は民衆の読み書きに対する新しい情熱を見て喜んでいたに違いない。しかし1722年の享保の改革や1790年の寛政の改革で示されたように、春画やその他の表現の自由を禁じた贅沢禁止令においては、民衆を脅すことが正しいと考えられ、民衆の読書の自由を尊重することを良いと思う役人は、ごくわずかであった。