飢饉がもたらした遊郭の構造変化
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元禄から宝永(1688-1710)にかけて、吉原は最も繁栄し、昼は極楽、夜は竜宮城と言われていた。吉原は日本一の市場なため、各地の珍しい食べ物がここに運ばれ、そして建物の中は魅惑的な香りに包まれ……
もし一人の客が置屋に百両の金を使ったとしたら、他の客は千両を使ったと言い、遊郭を贅沢な場所にしてしまっていた。しかし享保時代(1716-1736)以降、もし一人の客が十両使ったら、他の客は「自分は五両しか使わなかった」と自慢をし、たくさん金を使った者より自分は賢いと満足しながら、家路に着くのであった。元禄時代の男達はそんな男のことを「遊郭は金や銀を投げ捨てる場所だ。もし無駄遣いをしたくないのならば、どうしてそんなところへ行くのか?」と笑いながら言ったであろう。

―加藤曳尾庵(1763生まれ)
「我衣」(セシリア・セガワ・セイグル訳)

1732年、イナゴの大群が瀬戸内海付近の土地の穀物を荒らし、米の値段が七倍にも跳ね上がった。それは享保の大飢饉と呼ばれ、吉原を含む日本社会すべての地域に多大なる被害をもたらした。1761年までに太夫と言う最上級(最高値)の階級が姿を消し、吉原の全ての階級制度が大きな変貌を遂げた。皮肉にもこの吉原の階級崩壊で一番の恩恵を受けたのが17世紀のころには性産業で最も最下級とみなされた湯女と呼ばれた女達の末裔であった。

1657年、吉原の置屋主達は数十年にわたり無免許で売春を行っていた江戸中の風呂屋の取り潰しを幕府に迫り、多くの風呂屋は茶屋に経営体制を変え、そして湯女と呼ばれる女達はそこで散茶といわれる接客係りになったが、次第に客を取り売春行為をするようになる。一度の散茶訪問でかかる費用は15~30匁で、米ドルでだいたい$450~900くらいであった。

1665年、吉原の置屋主達の圧力により幕府は茶屋の取り潰しを行った。散茶は吉原に移り、そこで仕事を続けたが、その場合、吉原のもともとの客を横取りした罰として、最初の三年間は無給で働かなくてはならなかった。しかし散茶は再び人気となり、18世紀には昼三と呼ばれる最上級の遊女となり、太夫の評判をも超えることになった。